昭和43年5月2日 朝の御理解 (末永信太郎) № 43-064
御理解98節
心は神信心の定義じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。
心は神信心の定義じゃによって、お伺いをする時には、とりわけ平気でなければならぬ、と。落ち着いて静かに願え。これは、ご神前に出て、御祈念をさせてもらう。様々と願い事を申し上げたり、または、どうすることが本当か、というようなことを神様にお伺いをする。
神様がいちいちものを言うて下さるわけじゃないけれども、ね、こちらの心に響いてくるもの、何とはなしに心の中に通うて来るもの。そこで、生き方というか、その、右に左にということが分かって来る。とりわけ平気な心、ね、同時に心は信心の定規じゃと、こう仰る。自分の心が神様のお心に照らして、どうあれば間違いないのか。または、平気な心。まあ、平生心ということでしょうね。
私はその、朝晩の御祈念の時に奉仕をさせてもらいます拝詞ですね、生神金光大神様天地金乃神様と、こう言うて申し上げるあの拝詞です。拝詞の中に、生活の全面に渡って御取次を頂いてというところがございますね。生活の全面に渡って、御取次を頂いてということ。それと、この第98節というのは通ずるのではないかと、こう思う。御取次を頂くと言うても、例えば、遠隔地の人がいちいち、こちらへ電話をかけて来たり、またはお参りをして来たり、いちいち、ここでお願いをするといったようなことやら、お伺いをするといったようなことは、これは不可能、不可能なこと。
だから、生活の全面に渡って御取次を頂くということはどういうことか。私はこの、ね、生活の全面に渡って、神様に平気な平生心を持ってお伺いをするような心持ちで、日常生活を営ませて頂くということだと思うんです。ですから、御取次を頂くということが、いかに、いわゆる平生心でなからなければならないか、落ち着いておらなければならないか、ということを感じますね。
その人の信心が良いとか、素晴らしいとかと申しますけれども、この、ご神前で御祈念をしておる、その姿形というか、態度というか、これが立派であるということ。まあ、例えば、様々なその教会なら教会でご用を頂いておる。ね。幹部でございます、総代でございますというようなことが、その人の信心を良い悪いという決め手にはならない。ね。
その人の信心のけっきょく素晴らしさというものは、その人の信心の普段の生活にあると、私は思うんです。ね。金光様へお参りをしておる。ね。けれども、ああいう生き方が金光様の信心じゃろうか。金光様の先生があげなことを教えなさるじゃろうかと、いわゆる、避難の元になるような、その生き方。ね。それが、一番身近な親やら子やら、兄弟やら子供やらの間の上においてでも、ね、なるほど、家のお父さんは毎日お参りをされるから、なるほど、信心を頂いとるから家のお母さんはというように、その、尊敬をされれるような生き方。ね。そういう生き方が出けておる人こそが、私は良い信心をしておるのだ、また、信心が素晴らしいんだと、こう思うのです。
それはもちろん、神様の前に御祈念をしておる御祈念の姿勢姿というものも大事です。ここから、皆さんの御祈念ぶりを見ておると、様々な御祈念が、御祈念姿勢があるですね。えらあい、もう、スーとん言わんでご神前に額づいておるごたるかと思いよるけんで、ようと見てみると、もう、手の中に顔を埋めてから眠っとるです。ね。神様へ向かうてですね、その向かう姿勢というものは、やっぱり、どこまでもこの合掌。 合掌して向かう。ね。そういう私は、あの、姿がご神前、御祈念の時でも必要でありますようにです、ね、普段、平生の時でありましてもです、いつも私どもがです、ね、神様へ向かっていつも合掌しておる、そういう姿。ね。あらゆるものの中に、神の姿を見、あらゆる事柄の中に神の心を知り、ね、あらゆることの中から神の声を聞こうというのがお道の信心であってみればです、ね、自分の周辺すべて、神様のお働きであり、神様のお姿であるのですから、そういう一つの、なら、事柄の中にあっても、いつも、この素晴らしい御祈念の姿というものが、ね、ご神前に向かって御祈念をしておる合掌の姿というものがなからなければいかない。ね。ですから、全てのことが合掌して受けられるのだ。また、合掌した姿で見られるのだ。
ね、だから御祈念をしておる時の姿がそのままです、私どもの生活の上に現れて来るような生活であって、信心であって、初めて私は本当な良い信心だということが言えるんだと、こう思う。ね。そういうような自分の心の状態が心に感じられる時にです、ね、心は信心の定規じゃによってということになって来るのじゃないでしょうか。自分の心というものが、神様の心とどう食い違っておるか。ね。
いつでも何でも、どのような事柄でも合掌して拝んでおります、合掌して受けますというような心の状態の時が、皆さんの心が、心は信心の定規じゃによってと仰る心が、ね、心が嬉しい、有り難い、勿体無いといったような心がある時ということになるのですけれどもです。
ですから、もっと厳密にそれを言うとです、それは、嬉しかごとしておるけれども、何か自分の都合のよか時だけは嬉しいようにしとるのかも分からんから、あんまり当てにゃならん。ね。だから、嬉しいからと言うて、自分の心が今、その、定規に当てても間違いないという風には頂けない場合もあるんです。
けれども、どのような場合であってもです、御祈念をしておるあの姿の中にですね、合掌して神様を拝んでおる時の姿がです、私どもの日常生活の中にあるかどうかということなんです。いつ、どのような事態が引き起こって参りましても、その事態そのものを神様の働かせて頂けれる態勢。
合掌しておることの姿というものが心の中にあるかどうかということが、私は心は信心の定規じゃによって、ここんところを私は確かめておかなければいけない、いつも。ね。そこで次に、お伺いをする時には、とこう、とりわけ平気な心。これはあの、皆さんがここで色々とお伺いをなさいます時に、もう、本当に滅多なことじゃないですね、( )じゃないけども、このお伺いは後から、もう、後からして下さい、明日して下さいという時がないじゃない、御結界に座ってあっても。
なぜって、私の心が信心の定規がですね、当てて見ると狂っておる場合があるんです。そういう時にはお伺いは出来ません。ね。ですから、私がそうですね、やっぱ何回かあります、18年の中に。ね。真剣にお伺いさせて頂こうと思うて来た人に対してです、私がちょっと待って下さい。ね。急ぎなさるとなら、明日にして下さい、とこう。ね。
こういう状態でお伺いの出けるはずはない。また、お伺いをしてみても感じない、これに響いて来ない。ですから、心は信心の定規じゃ、と。ね。とりわけ平気な心、平生心。平生心がいつもあらなければならない。どのような問題にあっても、落ち着いて静かに願えと、こう仰る。ね。そういう時に、自分が落ち着いておるかどうか。そのことに対して、自分の感情が出るようなことがある時には、まあ、ものは言わんというぐらいに決めとって間違いない。ね。
言いたいことは明日言えといったようなことを申します。ね。一日経ってみると、言わんで済むことが多いのに驚くぐらいですから。ね。言いたい時には、もうすでに感情なの。感情で言うたって駄目です。ね。私は言わんで済むおかげを頂かせてもらうことが有り難い。
いや、これだけはいっちょ言うとかにゃ、と例えば思うようなことでもです、時間が経つと言わんで済むようになって来るんです。いかにそれが、その時の感情で思うたかということが分かります。ね。そこで、私はその、心の中にです、いつも豊かな大きな、しかも限りなく美しゅう。しかも、温かいという心でおらして頂けることを願いとしなきゃいけない。
綺麗に桜の花が咲いておる。遠くから見ると見事である。あの下で弁当ども頂いたらよかろうと思うて、皆が集まってくる。ところが、その桜の木の根元には、まあ、ゴミがいっぱい、こうやって置いちゃる。ビン切れやら何かこう、ガラクタのようなものが、こう(こづんである?)。側さに寄ると怪我する。いや、側さに寄るとかえって、実の花は綺麗だけれども、下にゴミがあるから、いやあ、ここでお弁当を食べようと思いよったけれども、ここじゃいかんばいと言うてから、また場所を変えるようなもの。
そういうような人がありますね。その人の側に寄ってみると、嫌になるという人。いかにも素晴らしいごとあるけれども、側に寄ってみると、いわば寄りつきたくない。ね。どんなに大きな火鉢があってもです、寒い例えば冬の日にです、はあ、火鉢があるからと言うて、皆がそこに手をかざして参りましてもです、その火鉢の周囲に集まって参りましてもです、中に温かい物がなかったらです、すぐ離れて行ってしまいます。私は、もう10日ぐらい前でしたか。夜にあの、何と言うですかね。何という題か知らんで、まあ、(さなだじゅうゆうし?)といったようなもんじゃないでしょうか、テレビでそういうのがあってます。
(さなだゆきむら)のところにですね、次々と素晴らしい、その家来が集まって来るというところでした。(さるときさすけ、あなやらこづけ)やら何とか、ああいう忍術使いの名人達がですね、その、次々とその、入ってくるところが、ちょうどあっておりました。
私はそれを見せて頂きよってから、もう感動するんですね。ね、中心が素晴らしい。中心が素晴らしいところにはね、素晴らしいものが必ず、いわゆる、名称のもとに弱卒なしです。ね、それを抱えられる。ね、それを許してやれれる。豊かさとか、いわゆる寛大な人のところへですね、良いものが集まって来る、良い人が集まって来るのは、もう、理が当然です。
家には客筋が悪いとか、家の店員はどうもあんまり良くないとか。結局それは、店員じゃない、お客さんじゃない、自分自身なん。もう、この店行ったらです、よし、少々高かったっちゃ、この店から買おうごたるというような店にならにゃつまらんて。離れられない、中に温かいものがある。
どんなに間口は広かっても、店は広かっても、ね、内容に温かいものがなかったら、必ず一応はそこに集まっても、必ず離れる。温かいものがないから。
自分の心のいわゆる根元にです、汚い物、危険な物があるから、その桜の花を目指して、皆が集まって来るけれども、またすぐ離れてしまう。私は、そういう、皆さんにおかげを頂いて頂きたいと思う。ためにはです、私どもの信心がです、ね、もう、むしろ御広前にお引き寄せを頂いておる時よりもです、その人の普段の生活そのものが素晴らしい、ということになって来なければいけないと、私は思う。ね。
ご神前で御祈念をさせてもらう、その御祈念の姿そのものが、日常生活の中にあらなければ駄目だ。自分の周辺にある全てが神様の働きであり、神様の姿であり、または、神の声と聞こえてくる、神の声であるのだけれども、それを合掌して受けようという気心がないと、それを良う受けないことになる。ね。
昨日、親教会の月次祭から帰らせてもらう車の中でですね、私と(瀬木さん)と長女と一緒に帰って参ります中で、私どもはもう、御祈念が、お祭りを済んでから行くんです。若先生と長女だけが早くお祭りにお参りをする、交代です。で、昨日は一緒になりました。
帰りの中で、一日はいつも、親先生のお話を簡単にされて、あの、信者さん達のお話があるんです。その話の中で、岸先生が皆さんに、こういう風に話しておられた。若先生もああして、本部から帰って見えられたのだから、どうでも一つ、若先生の信心を中心にして、若い人達に信心をしてもらわんならん。
どうでも、その、皆の子供さんやら子供やらに呼びかけて欲しいというような話があった中にです、先日ある信心の会合で、合楽の秋永さんがこういう話をされたと言うて、その話したそうです。ね。最近、少年少女会ですかね、または学生会。どうしても、教会に若い者が集まらない。
もう、様々なあの手この手を使っても、ね。例えて言うなら、若い者には、まあ、そのダンスを教えたりですね、まあ、その、ダンスパーティーのようなことをやったりね、その、レコードコンサートを開いたり。だから、そういう時にはですね、信心のない若い者まで、こう集まって来るけれどもね、しばらくすると、もう、みんな参って来んようになる。
次に拝まにゃならん、話ば聞かにゃんとが嫌。そう言うそうです。少年少女会なんかでも、それこそ、日曜に参って来るとおやつをやりよる。信者さんから、あの、色々、お金やら物やら集めてですね、その何か福引をさせたり、お菓子をやったりする。もう、やる時だけみんなが集まって来る。けれども、先生の話聞かにゃんけん嫌っち言って、集まって来んようになる。おかしな話である。
それを私は、これは、もう私の流儀で、最近の少年少女会の方達が御祈念をしてからここで頂く御理解はですね、もう、大人でも頂きこなせんと思われるような難しい御理解を実に、もう何と言うですかね、噛み砕いて御理解を下さいます。(ね、もう?)そこんところを私は、その、まあ、合楽の有り難さを感じるのですけれども、秋永先生がある信心の会合で、合楽の秋永さんがこう言うた。
そういうような、その若い者に対する信心が求められておるんだけれども。ね。それが、どうしたならば若い者が集まって来るか、どうしたならば集まって来るかと言われる話を聞くと、私はどうも可笑しいて言うたです。親が信心しよって、子供が付いて来んというはずがないですよ言うて、言われたんです。
話を聞きよって、なるほどそうだと、私も感じたと言うて、その岸先生が話されたということを自動車の中で聞いたんです。また、私もそう思うです。本当にそうだと思う。親が信心しておって、子供が付いて来んといったようなのは可笑しいです、どんなに考えたって。ね。
結局、今日私が言う、普段の信心なのです。教会でどげな素晴らしいことを言うたり、したりしておるか分からんけれどです、ね、家に帰ってそれがなかなら、付いちゃ来ませんよ。ね。普段の信心が素晴らしい。だから、子供も付いて来にゃ馬鹿らしゅうなって来る。ね。
お互いの生活の現場にです、おいてね、もう、我情我欲でいっぱいだ。商売人なら、もう儲かること、算盤の方を先にとっとる。そういう生き方ではです、(打目ですね?)。儲かる時だけなら良かろうけれども、損するな時が合掌して受けられない。昨日、久留米の岡崎さんが、昨日は三度参って来た。朝お参りをして来た時に、そのお供え、いつも鯉のお供えをなさる。それを、買うとって忘れたなもんだから、またその、11時頃だったか、参ってきてみえた、忘れとりましたから。そしたら先生、忘れとるわけ、ならないその訳があった。あることをお伺いしなければならなかった。それは手形の問題でしたけどもですね。その、みんな業者の方達も言われるのに、ね、これはね、まあ、内容はともかくとしてから、その、業者の方達が言うて下さるような方法をとれば損せんで済むわけなんです。ね。
だから、自分もそうしょうかと思ったけれども、神様のお心はどうじゃろうかと思うたげな。ね。生活の中に御取次を頂いたわけなんですよ、言うならば。ね。業者のいわば、(公社)な人達が教えて下さる方をとれば、損をせんで済むちゅうわけなんです。けれども、こういう場合、ね、親先生ならどう仰るじゃろうか、と。これは、鯉を忘れとったのもご都合じゃったじゃろう。今度は、あの、お供えを持って行ってお伺いをしよう。そして、親先生の仰る通りにしようということに腹決めた。
ね、心に一つのゆとり。いわば、全てのことを合掌して受けようという気が、そん時あったことになる訳です。お伺いをされたら、ね、損をする方を取れということでした。損になる方を取れということでした。だから私は、信心させて頂くなら、やっぱ、それがほんなこっじゃろうと私も思いましたけれども、やっぱり、損をすることは誰でも嫌だから。ね。
いわば、お伺いをしてから腹を決めようと思いました。ああ、これで腹が決まりましたと言うて帰られた。ね。そういう時にです、そういう時にやり損なうのです。ね。まあ、それがどういう結果になって、それはおかげになって来るか分かりませんけれどもです、ね、そういう時にいつも、いわゆる御祈念をしておる姿のような、いわゆる一切を合掌して受けようというような姿が、心の状態が動いておりませんと、得の方、得する方を取って、ね、お徳の方を落としてしまいます。
心は信心の定規じゃによって、お伺いをする時にはとりわけ平気でなければならん。落ち着いて静かに願え。落ち着いて静かに願われた訳である。心は信心の定規というのは、現在私が、ね、お広前を離れてそれぞれの生活の現場において、ね、全てのことをこの姿で受けようという。拝ませて頂こうとしておる御祈念の姿そのままがです、生活のその現場に現れておらなければならない。信心を現すと言う、上様を現すと言う。そういう中からしか、神様は現れて下さらんのである。ね。
心は信心の定規じゃ。ね、そういう風に自分の心がです、ね・・・ (テープの途中切れ)